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私はお見合いで結婚した。と言うと、veritaを閲覧している若い女性の中には、もしかしたら「見合い? 何、それ?」と聞き返す方がいらっしゃるかもしれない。30年近く前には、結婚適齢期(これも死語)の男女が出会うために、見合いなんていう優雅な(?)システムがあったのですよ。



恋愛結婚の比率が見合い結婚を抜くのは1960年代後半である。私たちが結婚した1970年代後半には統計では3割弱。しかし、見合い結婚には「自分の力で相手を見つけられない」「親の言うなり」「愛より打算」というマイナスイメージがともなうために、たとえこてこての見合いでも「恋愛」とウソをつく人(夫もその一人)も大勢いたから、本当のところはどうだったのだろう。

鋭く世相を斬ることにかけては当代随一だと私が思っている斎藤美奈子氏は、新刊『冠婚葬祭のひみつ』でこんなことを言っている。 「「家意識」を温存させたのは、意外にも恋愛結婚だったのではないかと私はひそかに思っている。(中略)恋愛結婚の時代には、「家」のかわりを「愛」が果たしたのではなかったろうか。「愛している」から彼女は仕事をやめて家庭に入り、「愛している」から姓を変え、「愛している」から夫の赴任先についていき、「愛している」から夫の親の介護をした。もう何もかもが「愛」ゆえで、しかし、結果的に彼女の役目は昔の「嫁」とおんなじだった」

恋愛結婚というと、ロマンチックで夢があって自由で……と結婚にいっぱい夢がありそうだったが、なに、意識は見合い/恋愛を問わず戦前を引きずっていたのだ。

『冠婚葬祭のひみつ』は明治から平成の今にいたるまで、結婚式や葬式が100年間でどのように移り変わってきたかをたどった内容である。私たちが「これぞ日本の伝統」や「従わねばならないしきたり」と思っていることの大半が、実はさして歴史的に古いことではないことだということが暴かれる。しかも三々九度を交わす神前結婚だって、真っ白のウェディングドレスでヴァージンロードをしずしず歩くキリスト教の結婚式だって、宗教や伝統からではなくビジネスの発想から考案されたものだということまで斎藤氏はあきらかにしてしまう。

冠婚葬祭のひみつ

その上で、一夫一婦制度、どちらかが改姓しなくてはならない婚姻届、同居の強制、互いの家族とつきあわねばならないこと、夫が経済を支え、妻が家事育児を見るという性別役割分業といった結婚を維持していくことが、はたして日本人を幸せにするのか、という問題にふれる。そしてこのまま晩婚化が進んでますます少子高齢化社会になると、必然的に増える身寄りのない高齢者の葬式はいったい誰が出すのか? 墓はどうなるのか? という切実な問題にも言及する。

結婚したい人も、独身のままでいい人も、子どもがほしい人もほしくない人も、とにかく一読してほしい。どんな人生を選ぶとしても、自分の生と性と死のケジメをつけることから人は逃れられないし、ケジメのつけ方がその人の生き方なのだ、ということをひしひしと感じるはずである。

(text / motoko jitukawa)

『冠婚葬祭のひみつ』   斎藤美奈子著 岩波新書 ¥777 (税込)