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ミステリーやサスペンス分野の作品が、文学として高い評価を得るようになって久しい。日本では高村薫、桐野夏生、宮部みゆきなどの作品がそういった評価を得ている。探偵ものにしろ、警察ものにしろ、謎解きのプロットのおもしろさに加えて、犯罪を捜査する人間たちの人物像がしっかりと骨太に描かれた「文学的」作品を求める質の高い読者が増えたせいかもしれない。

いや、もしかすると読者がぜいたくになって、ミステリーのエンターテインメント性と文学的質の両方をいちどきに味わいたい、と思っているせいかもしれないが。

「フランス、ミステリー界の女王」と呼ばれるフレッド・ヴァルガスの<三聖人シリーズ>第2弾の本書も、凝ったプロットも然りながら、主人公の元内務省調査員のルイ・ケヴェレールをはじめ、<三聖人>と呼ばれるマルク、マティアス、リュシアン(今回はほとんど登場せず)の3人の助手(?)たちの人物像が浮かび上がるシーンで読ませる文学的エッセンスの濃度が高いミステリーである。

パリの公園のベンチで極右の活動家を内偵していたケヴェレールが、あるとき木の根元の犬の糞のなかに、人骨を見つけたところからストーリーは始まる。それが年老いた女性の足の指の骨であり、殺人事件のにおいをかいだ彼は、<三聖人>の協力を得て捜査に乗り出した。

ついにノルマンディー地方の寒村からその骨がやってきたことを突き止めた彼は、マルクとマティアスの2人をともなって海辺の村に乗り込む。ヨソモノと地元民とが混じり合う村の政治的勢力争いや、昔の恋人の夫と交わすちょっとあやしい洒脱な会話(さすがフランス人!)や、戦争の影がいまだに色濃く落ちるフランス社会の深い暗闇など、興味深いシーンは数多くあるが、なんといっても読者を最後まで引きつけてやまないのが「主人公ケヴェレールはいったい何者なのか?」という一点である。もしかすると、殺人事件の謎解き以上に興味をそそられるかもしれない。そしてまた、ちらちら明かされる彼の出自や経歴がストーリーにインパクトを与える。

<三聖人>とは、中世専門の歴史学者のマルク(愛称は聖マルコ)、先史時代専門の歴史学者のマティアス(聖マタイス)、第一次大戦専門の歴史学者のリュシアン(聖ルカ)の3人。ボロ館と呼ばれるマルクの叔父の家に居候する30代半ばの男3人は、いかにも浮世離れしたオタク学者たちだ。この3人の人物設定も、(フランス・ミステリーっぽく?)おしゃれである。かっこいいんだかかっこ悪いんだかわからないが、いかにもスポットライトからはほど遠そうな分野の学問に、世間体など頓着せずのめりこんでいくところにかわいげがある。

論理は右手

ところでタイトルの『論理は右手に』であるが、ケルヴェレールが「しっかりとして確信に満ちた能力の所有者である右手。人間の才能を導くもの。支配と方法と論理は右手に存在する」ということから引用されている。主人公の哲学的なこんなセリフにも、フランス・ミステリーの香りをかぐ、といったらうがちすぎだろうか。

(text / motoko jitukawa)

『論理は右手に』 フレッド・ヴァルガス著 藤田真利子訳 創元推理文庫 \\ 861(税込)