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恥ずかしながら、私は大学と専門学校で「翻訳」を教えている。すでに10年以上教壇に立って「冠詞の訳し方がポイント」とか「固有名詞に注目して」などと英語から日本語に訳すときのコツ(?)を語りながら、ずっともやもやした「疑問」が胸の底のほうに澱のようにたまっていくのを感じていた。

疑問その1。なぜ英語で書かれたものばかり翻訳しなくちゃいけないのか? 疑問その2。日本語とはいったいどういう言語なのか? 疑問その3。英語を日本語に「翻訳」したものと原文との間にある溝は超えられないのではないか? そんな「疑問」に対して、一つの答えをくれたのが本書だ。いや、正確には「答え」ではない。似たような疑問と、似たような危機感を持っている人がいる、ということを知った喜びを与えてくれた、というほうが正しい。

水村氏は12歳のとき、父上の仕事の関係でニューヨークに移り住んだ。教育はアメリカで受けている。だが、どうしても英語に(たぶんアメリカの英語風土にも)馴染めず、改造社版『現代日本文学全集』を読んで少女時代を過ごし、イェール大学と大学院で仏文学を専攻したという。この経歴を見て、本書が「外(アメリカ育ちの英語使い)から見た、乱れた日本語(と日本人)へのお決まりの批判だろう」と思われるだろうが、それは断じて違う。かといって「国語」としての日本語イデオロギー賛美でもない。 インターネットの驚異的な普及が英語を「普遍語」とし、日本では日本語が話し言葉としてのみ使われる「現地語」となり、本当に「読まれるべき言葉」としての力を失いつつある、と著者は危機感を募らせる。情報を伝えるだけなら「普遍語」から「現地語」への翻訳でもいいかもしれない。だが、人には翻訳ではどうしても伝わらない、表現できないものがある。人はどう生きるかという思想を伝え、知ることの喜びを味わうためには、「読まれるべき言葉」が必要なのだ。そして日本語は、歴史に揉まれながら奇跡的に「読まれるべき言葉」としての日本語を成立させ、近代文学として世界に誇れる言語世界をつくりだしてきた、と指摘する。

私は水村氏の『續明暗』と『本格小説』が発売されると同時に夢中になって読み(両方とも名作。しかもおもしろい。読み始めたら徹夜を覚悟したほうがいいです)、その文章の美しさ、プロットの見事さ、底知れぬおそろしいほどの人間観察力に感動したことがある。そのとき著者紹介に「プリンストン大学などで日本近代文学を教える」とあった一節が目にとまり、英語を話す学生(とそのときは思った)に、英語で「日本近代文学」の何を、どう教えるというのだろう?と失礼ながら首をかしげた。 文学を翻訳するとき感じる英語(だけでない外国語)と日本語の間にある大きな溝。翻訳不可能な皮膚感覚。溜息を吐いても胸の奥に残る苦いものを味わったりしないのだろうか?そんなことを思った。

日本語が亡びるとき

だからたぶん、本書を書かれたときには、そんな(絶望的な)思いや疑問に真っ向から立ち向かうエネルギーと勇気が必要だったに違いない。そして本書こそ「読まれるべき言葉」で書かれた、読まれるべき本であることを強調しておきたい。

(text / motoko jitukawa) 

『日本語が亡びるとき——英語の世紀の中で』 水村美苗著 筑摩書房 / \\1,890(税込)