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先日、フィンランドに行ってきた。ちょうど総選挙直前で、街のあちこちに公示ポスターが貼ってあり、どこに行っても選挙の話題が出た。今回のトピックスは経済問題で、90年代後半に一度大きなリセッションに見舞われた経験を踏まえ、グローバル化をにらんだ今後の産業育成と経済の舵取りの方向が争点になっているそうだ。



そういった政治的な問題と並んで話題になっていたのが、「私は立候補者の○○と個人的な知り合い」という話題である。たとえば若者たちは、ポスターの若いおねーさんを指して「あ、この子、高校の同級生だ。高校時代から政治に関心あったと思ったら、国政かぁ」という。たとえばおじさんは、新聞をめくって演説をしている同年輩の立候補者を指して「お、こいつは昔、同じ団地に住んでいたヤツだよ。よく一緒に飲んだな。昔から住民運動に熱心だった」という。そこから始まるのが、立候補者のごくプライベートなエピソードと、それが彼らの政治活動にどういう影響を及ぼすか、という話題である。

フィンランドは日本と変わらない国土面積に、日本の4割ほどの520万人が暮らす比較的小さな国である。そこで行われている政治は文字通り人々の暮らしに密着していて、若者からお年寄りまで政治への関心が高い。政治家はおエライ先生ではなく、知り合いだったり、顔見知りだったりして、その性格や生い立ちを知る生身の存在として感じている。フィンランドの人たちにとって政治は実感のない権力組織ではなく、もっと日々の暮らしに結びつく実態のあるものである、と私は感じた。

帰国してから『ブッシュのホワイトハウス』を読んだ。毎日のように報道されてはいるものの、アメリカという超大国の政治家がどんな人間で、その性格や生い立ちが政治姿勢にどう影響しているのか、これまで自分がさっぱり見ようとしてこなかったことに気づいた。ウォーターゲート事件をスクープした『大統領の陰謀』の共著者であるジャーナリスト、ボブ・ウッドワードによる本書は、登場人物の一人ひとりをていねいに描くことで、世界の政治地図を変えたイラク侵攻というドラマをよくできた映画のように描き出す。 「いい人」なんだけれど、統率力や決断力やマネージメント能力という国の首長には欠かせない能力がすっぽり欠如しているブッシュ・ジュニア。そんな息子をはらはらしながら見守り、なんとか「一人前に見えるように」と、優秀な側近を送り込んで陰で支えようとするブッシュ・パパ。人の言うことにまったく耳を貸さず、強引マイウェイを突っ走るラムズフェルド元国務長官。そのラムズフェルドと事あるごとに対立してケンカし、解任を画策したライス大統領補佐官(当時)は、ブッシュ大統領夫妻と親密という以上のべたべたした関係である。

9.11テロをきっかけに、登場人物の性格はますますむきだしになる。本書では陰謀と書かれているが、陰謀と呼ぶにはあまりにも子どもじみたいがみあいや駆け引きは、思わず苦笑させられるほど。しかし笑っていられないのは、アメリカの政治家たちのそういう性格やエゴが、世界各地で多くの人の命を奪っているという事実である。

ブッシュのホワイトハウス

政治家は飛び切り生臭いエゴを持った人間であり、政治は人間ドラマである、とはよく言われることだが、アメリカ大統領府で繰り広げられているこんなどろどろのドラマを見逃していたのは、我ながらウカツだった。

フィンランドの人たちではないが、今一度、政治家の性格がその政治姿勢と直結しているかを認識し、政治が自分たちの生活を左右するものであることをしっかり自覚しなくてはならないと思う。日本もこれから選挙の季節が始まる。

(text / motoko jitukawa)

『ブッシュのホワイトハウス(上)』『ブッシュのホワイトハウス(下)』 ボブ・ウッドワード著 伏見威蕃訳 日本経済新聞出版社 各\\1,890(税込)