譜めくりの女,余白恐怖症
物事をありのままに受け止めることは、簡単なようでいてかなり難しい。例えば自分のことをジーッと見てる人がいたら、「私の顔になんかついてるの?」と不安になる人もいれば、「人の顔をじろじろ見る気持ちの悪いヤツ」と頭に来る人もいるし、「あの女、俺に気がある」みたいに勘違いする男もいる。

その後のアクション――例えば、「失礼ですが、鼻毛出てますよ」と言ってくれるとか――がないために、そこには「余白」のようなものが生まれてしまう。人間は生まれながらに想像力を持っているので、その「余白」を自分の想像で埋めてしまい、ただ「なんか知らんけど、私を見てた人」とは受け取れないのだ。

『譜めくりの女』は、余白だらけの映画と言っていい。主人公メラニーはある復讐計画のためにピアニストのアリアーヌに近づき、少しずつ彼女を陥れてゆく。だがその大枠以外は何の説明もない。例えばメラニーと会う前にアリアーヌを襲った交通事故。この事故で精神不安定になったことは復讐計画に不可欠な要素だ。無口で無表情という余白たっぷりのメラニーのキャラは、「犯人は捕まっていないんだ」というセリフと相乗効果で、物語により不気味な影を落とし始める。さらに、映画にはメラニーが母親に2度も電話するシーンがある。離れ離れに暮す母娘にありがちな、なんてことない会話だが、娘同様に母親もアリアーヌを恨んでいるだろうことを考えると、メラニーの「順調よ」という言葉は妙に奇妙に響く。アリアーヌと夫の電話での会話もクサいし、アリアーヌと彼女の楽団仲間の女性との関係も、もしかして昔はレズの恋人同士だったりして……と、想像だけが膨らむのだが、ハリウッド映画のように親切な説明は一切ない。観客はすごく不安な気分になるのである。

譜めくりの女

そんなわけで、映画は観客の「余白恐怖症」のバロメーターのような作品になっている。沈黙があると「なになに、いまのどういうことっ?」と不安になったり、状況をつかもうとしていろいろ頭をめぐらすような人は、画面に描かれている物語の4〜5倍くらいのウラ話を頭の中に構築してしまうという寸法だ。余白の意味を考え、さらにその考えた内容が相手にバレてる気がして不安になり、それを気づかれまいとして自爆する私のような“超”余白恐怖症は、まんまと監督の餌食である。こういう体質だからこの仕事ができると思えば、まあ悪いことばっかりではないけれど。 (text / Shiho Atsumi )

譜めくりの女

『譜めくりの女』

監督:ドゥニ・デルクール
出演:カトリーヌ・フロ、デボラ・フランソワ、パスカル・グレゴリー、
グザヴィエ・ド・ギュボン
配給:カフェグルーヴ、トルネード・フィルム
劇場情報:4月19日よりシネスイッチ銀座、渋谷シネ・アミューズにて公開
© Phillippe Quaisse