リトルチルドレン
女の子の集団では、全員が同じものや似たようなものを身に着けるという奇妙な現象が起こるが、これは女が“共感”でつながったヨコ関係のコミュニティを好むためだ。これに対し男が好むのはタテ関係、つまり上下関係のコミュニティで、たいていの男は相手と自分の立場を比較し、それに応じて相手への出方を決める。

この習性の元をたどれば、原始時代だ。巨大なマンモスとか狙っていた男たちは、お前は鼻担当お前は耳担当、このタイミングで前衛が石を投げ、後衛がここに追い込むなどと作戦をたてていたに違いなく、そんな時に組織を無視し、集団を乱すようなヤツがいたら、全員がマンモスに踏み潰されかねない。男にとって集団の秩序を守ることは、サバイバルそのものだったのである。「まあマンモスのためだ、今回はこらえてもらえまいか」とかいわれたら最後、ノーとは言えない。「サーベルタイガーを捕るから、オトリになってくれ」みたいな、自分犠牲パターンすら比較的平気である。個人のためにあるはずの集団のために、個人が犠牲になる。男にとってこれは矛盾にならない。だが平等や共感を旨とする女にとっては矛盾でしかない。許せない。ヒエラルキーのある集団に女が馴染まないのはそのせいだ。

映画『リトル・チルドレン』には、サラとブラッドというW不倫のカップルが登場する。それぞれの人生に虚しさを感じたふたりは、家庭での小さな不満をきっかけに急接近し、やがて関係を持つ。初めてのその日、サラの家のランドリー・ルームであられもなくつながりながら、ブラッドはサラにこうなってしまった善悪について問いかける。「これは正しいことだわ」と答える彼女に、ブラッドは言う。「これはいけないことだよ」。サラは家族という集団の中で、自分だけが犠牲を強いられていることに我慢ならない。この行為はそんな集団にノーを突きつけることだから、当然ながら正しい。正しいから突き進む。一方ブラッドにとっては、集団を崩壊させかねないこの行為は当然よろしくない。自分の人生はパッとしないが、集団に犠牲は付きものだ。そもそも才色兼備の妻との関係が悪いわけでもない。行く末は最初の時点から見えているのである。

リトルチルドレン

映画には、フローベルの『ボヴァリー夫人』が暗示的に登場する。自分を縛り付ける家庭にノーを突きつけて不倫を繰り返し、信じた相手に捨てられた末に自殺する夫人はあまりに愚かだが、その一方で矛盾を矛盾と思わない男の図太さにもびっくりする。上半身と下半身が完全に矛盾したまま、無邪気に関係を楽しめる。「いけないこと」と思うことを、この関係の一種の興奮剤にさえしているのである。むかつく。だがそんなふうに図太く生きられたらと、ちょっと羨ましくもある。 (text / Shiho Atsumi )

リトルチルドレン

『リトル・チルドレン』


監督:トッド・フィールド
出演:ケイト・ウィンスレット/パトリック・ウィルソン/ジェニファー・コネリー/ジャッキー・アール・ヘイリーほか
配給:ムービーアイ
劇場情報:2007年7月28日よりBunkamuraル・シネマ、シャンテ シネほか全国にて公開
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