music_main
『だって欲しいんだもん――借金女王のビンボー日記』を10年以上前に読んで以来、私は中村うさぎの本を、エッセイ、小説をふくめてすべて読んでいる、と思う。もしかしたら読み落としている本があるかもしれない、ということをひそかに期待するほどの、「中村うさぎストーカー読者」である。

だって、読みつくしてしまったらさびしいではないですか。

うさぎさん(と、あえてこう呼んでみたい)の本を読むたび、ガハハと笑いながら最後のあとがきから奥付までをなめるように読み、ページを閉じてからしばらくなんともいえない余韻にひたる。余韻のなかに含まれるもの――思い出し笑い、共感、そしてフルマラソンを走ったような疲労感と脱力感。

うさぎさんの本はエネルギーがなくては読めない。かる〜く読み流せる文章のように思えるかもしれないが、読後がずしんとくる。つねに「それで、あなたはどうなの?」と問いかけてきて、しかもいい加減に逃げることを許さない。むずかしいことをいっているわけではない。というか、いかにももっともなところでオチをつけたりは理屈という隠れ蓑で問題をおおったりはしない。つねに直球、ストレート。ほら、受けてたちなよ! と読者に要求する。だが、その球を本当にまじめに受け止めようとしたら、相当の覚悟が必要である。だからきっと、読み終わったあとにぐったり疲れるのだと思う。

2年半にわたって雑誌に連載されたものをまとめたこの文庫には、ホストに恋をしてのたうち、つぎに美容整形にハマったところまでが書きつづられている。相変わらず壮絶な内容である。ホストに何百万円も使うことや、美容整形で顔やカラダをいじることが壮絶なのではない。うさぎさんがどんなときにも、「自己」と「他者」、そして「主観」と「客観」という観点からモノゴトを観察しているところが壮絶なのである。女である自分、美しい(醜い)自分、頭がいい自分、ダメな自分、モテる(モテない)自分、賢い自分、そして愚かな自分、そのすべての「自分」を「他者」の目で見て、笑ったり、泣いたり、喜んだり、苦しんだりする。自分に対して容赦がない目で見て書くのだが、それでいて自分に対してとてもやさしい。そこに救われる。ああ、この人は「自分」をちゃんと受け止めて愛している人なんだな、と私は安心する。

花も実もない人生だけど

彼女が本書で何回となく繰り返す「さびしい」という言葉は、他人にかまってもらえないから、とか、自分の思うようにコトが運ばなくて、という自己憐憫から出てくるものではない。それ以上に、「人は誰でもさびしいんだよ」というようなオトナのわかったような言葉なんかでもない。大げさに聞こえるかもしれないが、魂のもっと深いところから出てくる言葉として私にはひびくのだ。

ちなみに、私が読みながら泣いてしまったのが『さびしいまる、くるしいまる。』(角川文庫)。これも合わせて読んでみてほしい。

(text / motoko jitukawa ) 

『花も実もない人生だけど』 中村うさぎ著 角川文庫、\\500(税込)