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書店でこの本を手にとったのは、漱石や漢詩に興味があったからというより、装幀の美しさに惹かれてのことだった。紺色の布製に金文字の型押しでタイトルと著者名が入っている、といういまどきめずらしい表紙。手の中にしっくりなじむ変形の小型判。

そっとページを開くと、字体と組み方が絶妙に調和し、むずかしい文字が並ぶ漢詩がすっと目に入ってきて、「美しい!」と思わずため息をついた。 ちなみに装幀は菊地信義氏。ああ、やはり、と納得する。学匠詩人と言われる著者、夏目漱石がつくる漢詩……その要素から想起される内容を表現する本をつくれるのは、やはり菊地氏だろう。

本書は、作家、古井由吉氏が2008年に4回にわたってセミナーで語られた講義をもとにしている。だから語りかける言葉で書かれているので、とても読みやすい。漢詩と聞くと、「え〜、むずかしそう。無理」という人も多いだろうが(私も本書を読む前はそうだった)、そんな人にもていねいに、漢字で書かれる詩の世界の広さと奥行きを、かんでふくめるように説明してくれる。また、夏目漱石という日本が生んだ文豪の人となりや作家としての器の大きさを知る上の、格好の入門書にもなっている。

夏目漱石は明治43年、43歳のとき胃潰瘍を悪化させて入院し、退院後、療養のために向かった伊豆の温泉旅館で大量の喀血をして、一時人事不省に陥るほどの大病を患う。幸いにしてなんとか持ち直し、東京に戻って治療を続けやっと快復し、朝日新聞の職に復帰した。病の床についていたときから漢詩をつくるようになり、毎年のように長編小説を執筆するかたわら、漢詩を書き続けたという。とくに亡くなった年に連載していた小説「明暗」を執筆していた時期(大正5年)は、午前中は小説を書き、午後は漢詩を一編ずつつくっていたそうだ。なんという創作意欲! 明治の文化人は創作のスケールがちがう。 それにしても、なぜいま、明治の文豪の漢詩なのか? それについて、古井氏はまえがきとあとがきで、日本語の精妙さが失われつつあることへの危機感から、漢文に立ち戻ってはどうか、という自身の提案を述べている。

日本人は古来、漢字と漢文をつねに頭のなかで和文、和語に無意識のうちに翻訳しながら日本語を読み書き話してきた。言ってみれば、バイリンガルだった。一つの文字に多くの意味を持ち、一文字だけでも世界が広がる漢字をたくみにあやつりながら、繊細な感性や哲学や世界観を語ってきた。ところがいま、それが失われつつある。 「(中略)次第に言葉が分断されて、長い呼吸の意味を伝えることが難しくなった。複雑な事情やたくさんの要素を総合する力も衰えた。

漢詩と漱石

時代の必要とか必然とか、そうなった理由はあるに違いないのですが、その中でも一つ、漢文あるいは漢文的要素から遠ざかったということがある。漢文的な知識が、日本人の言語の論理をつなぐ、一つの大事な糸だったのです。明治の文学者、文化人は、政治家ももちろん、漢文的な文脈をしっかり持っていた。したがって、後の大正、昭和、平成の時代より、ある意味ではずっと言語は明快であった。言語的決断もはっきりわかった。明瞭に表すことができた」 漢詩をつくれ、とまでは言わないが、日本の政治家も漢文が読めるくらいの教養は持ってほしい、と渋い表紙の美しい本を閉じて、別の意味のため息をついた。

『漱石の漢詩を読む』  古井由吉著 岩波書店/¥1,995

(text / motoko jitukawa)