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10年前からファッションも何もかも巻き込むグローバリズムの潮流に嫌気がさしている。2011年横浜トリエンナーレの記者発表に「多様化する国際展、多様化するアート」というフレーズがあったけれども、「個」を尊重していけば、90年代の表現のボーダレス化を経た現在、 多様化は当たり前のことだ。グローバリズムの強引な波に踊らされない、地に足をつけて踏ん張る姿勢はどこに身を置いていても、大切だと思う。

写真:小金沢健人《黒くぬれ、そして消せ》2010 Courtesy of Takehito Koganezawa

macromauroの東京での初めての展示会に行った。革小物からスタートした彼らの、絵具を垂らした時の気分と勢いで柄が決まる一点ものの財布はもちろん、バッグ類も一つ一つ素材と形を吟味して丹念に作られた良さがある。今回初めて発表した服は若手アーティスト2人とのコラボレーション。中川敦夫さんの「もんすとろ」の絵のファブリック展開にひかれた。

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写真:「もんすとろ」のファブリック

佐藤雅彦ディレクション「“これも自分と認めざるをえない”展」。まず、“属性”をテーマにするというのはどれだけリスキーなことであることかを意識したい。ファッションならコム デ ギャルソンがカーキ色の服を発表すると「ナチスを思い起こさせ嫌悪した」と即座に批判されるヨーロッパに、この展覧会が巡回したらどうなるだろうか? とまず連想した。観終わって感じたのは、アマゾンで買いもしたくない「おすすめの本」をリコメンドされ、ツイッターで勝手に「あなたの類似ユーザー」を掲示されたびに、ふざけるな、と思うのはごく正しい怒りだし、流されるままに生きたくないと思う証だということ。最も印象的な展示は「指紋の池」、「金魚が先か、自分が先か」は金魚の巨大さが作品を支えていた。

会期終了間際に回ったあいちトリエンナーレ。外国の作家が日本にくると少し調子が狂うものだなという感覚は、時に、どうしてもぬぐえない感がある。マーク・ボスウィックも初めての名古屋、初めての雑居ビルに、どう対処しえたか。NYやロンドンやパリの古いビルなら、その片隅の空気まで彼は知り尽くしていただろう。でも名古屋の長者町付近はちょっと違う。何が違うのか明確に言語化できないけれど、絶対に何か決定的な違いはある。その違いにマークが対処しきれたかどうか、というとそこには、ちょっと疑問を抱いた。

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写真:山本高之《どうぶつたちの一週間》2010 Courtesy of Takayuki Yamamoto

長者町では山本高之の動物園で歌う子どもたちの映像に見入った。帰宅後口ずさむと小一の息子がすかさず反応して替え歌を作った。生活や日常にきっちりと立ちながら、どこの誰にも潜むひそやかな差異を当たり前のように差し出してみせる作家。(作家資料
納屋橋で見た小金沢健人の映像《黒くぬれ、そして消せ》は衝撃的だった。聴覚、視覚が総動員されてあきらかに作品を「体験」しているのだが、脳は一休みしている。この「脳は一休みしている感覚」というものは、とても貴重なものである。それがアート作品によって与えられるということはどれだけの至福であることかと思う。

文/林 央子